八事を葬る。
2005年10月10日二度寝して目が覚めると、一人だった。
しょうがないので、今度はTVを付けてまた寝た。
がんばって起きて見ようとしたのだけれど、つまらなくてやっぱり寝た。
ここは、私が生まれてから、夢をみることをやめる頃までいた場所だ。
細かい部分はほとんど記憶にないのだが、何故か知らぬ土地と思うこともなく、なんと言ったらいいのか。
故郷未満、一見以上、ってとこか。
この街もずいぶん変わったようだ。
ジャスコが出来て、地下鉄が縦横共に走り、裏山が家屋だらけになった。
社宅が消え、個人商店が消え、所々にやたら派手なマンションが現れるようになった。
過去に一度ここを去った私が、再びこの場所との接点を失いつつあることを実感する。
八事を葬る。
私はここで一人で過ごすことが好きだった。
二度目の八事は、とても静かに、ひっそりと生活できた。
また雑用で訪れることがあるだろうけれど、今日は区切りの日なのだ。
私は概して人間に長期的な情、というものを持つことができない。
人間関係というものは常に流動的であり、瞬間の継続と蓄積、という感覚を否めない。
いつかは終わるものとして、人間関係を築く。
人は来ては、去っていく。それの繰り返しだと思っている。
しかしながら、土地というものは、私の中で全く別の生き物のように存在している。
ずっとそこに、ある。少しずつ変化しながら、それでもそこに、ある。
中にある人や建築物等のソフトはかわっていくけれど、ハードはずっとそこにあって、土地によっては、いつでも私を待っていてくれるかのような感覚を与えられることすらある。
例にもれず、私にとっての八事とは、そういう存在である。
住み慣れた家を去る前に後ろをふと振り返る。
住人のいなくなったその部屋は、なんだか恐縮しながら縮こまっているように見えた。
よく見るといろいろなところに老朽感が滲み出ていた。
床は軋む所があるし、壁は煤けている。設計も古いタイプでお世辞にも便利とはいえない。
それでもきっと、これからも私の記憶の中で、再現され、反芻されるであろう。
私の生活、軌跡と共に。
駅に向かう途中で、大きな手荷物を引きずりながら、ごくたまに行く喫茶店に立ち寄った。
ここで共に時間を過ごした人々と寄って、静かな時間を過ごした。
今日は初めて一人だ。
まるで時代が戻ってしまったかのような装飾のその店は、私たちのお気に入りだった。
今日もこの店は時代を逆行し、その装飾にしっくりと馴染んだ時代錯誤の店員の雰囲気も、いつもどおりだった。
いつもは普通のコーヒーとなにか食べる物(だいたい決まっていて、私は甘ければホットケーキ、でなければハムサンド、だった)を注文するが、お腹が全くすいていなかったので、一番高いコーヒーを注文した。
時間をかけてゆっくりと飲み(とても熱かったので、冷まして飲まないと飲めなかったともいえる)、短編小説を1つ読んだ。
静かな時間が流れ、だんだんとこの静寂に漂っていたいという思いが増してきたが、そうもしていられない、と我に返った。
会計を済ませ、店を出るときにいつもの店員が私の後姿に声をかけた。
「いつもありがとうございます。またどうぞ。」
たまにしか行かなかった店なのに、彼女の記憶の中に私がいたのだ。
驚きと共に、穏やかな喜びが沸き起こってきた。
私もまた、この地に存在していたのだと。
名駅からバスに乗る。見送りと共に、きしめんを食べて別れる。
バスの中で、ここ何日かの慌しさから開放され、箍が外れたように心に静かな波が訪れる。
何故か、涙が出てきた。
去っていった住人、去ってきた八事、いろいろなものが漠然と渾然と溢れてくる。
小一時間ほどそうした流れに任せて、その後少し眠った。
私は、目が覚めたら、またいつもの日常に戻ることを知っていた。
しょうがないので、今度はTVを付けてまた寝た。
がんばって起きて見ようとしたのだけれど、つまらなくてやっぱり寝た。
ここは、私が生まれてから、夢をみることをやめる頃までいた場所だ。
細かい部分はほとんど記憶にないのだが、何故か知らぬ土地と思うこともなく、なんと言ったらいいのか。
故郷未満、一見以上、ってとこか。
この街もずいぶん変わったようだ。
ジャスコが出来て、地下鉄が縦横共に走り、裏山が家屋だらけになった。
社宅が消え、個人商店が消え、所々にやたら派手なマンションが現れるようになった。
過去に一度ここを去った私が、再びこの場所との接点を失いつつあることを実感する。
八事を葬る。
私はここで一人で過ごすことが好きだった。
二度目の八事は、とても静かに、ひっそりと生活できた。
また雑用で訪れることがあるだろうけれど、今日は区切りの日なのだ。
私は概して人間に長期的な情、というものを持つことができない。
人間関係というものは常に流動的であり、瞬間の継続と蓄積、という感覚を否めない。
いつかは終わるものとして、人間関係を築く。
人は来ては、去っていく。それの繰り返しだと思っている。
しかしながら、土地というものは、私の中で全く別の生き物のように存在している。
ずっとそこに、ある。少しずつ変化しながら、それでもそこに、ある。
中にある人や建築物等のソフトはかわっていくけれど、ハードはずっとそこにあって、土地によっては、いつでも私を待っていてくれるかのような感覚を与えられることすらある。
例にもれず、私にとっての八事とは、そういう存在である。
住み慣れた家を去る前に後ろをふと振り返る。
住人のいなくなったその部屋は、なんだか恐縮しながら縮こまっているように見えた。
よく見るといろいろなところに老朽感が滲み出ていた。
床は軋む所があるし、壁は煤けている。設計も古いタイプでお世辞にも便利とはいえない。
それでもきっと、これからも私の記憶の中で、再現され、反芻されるであろう。
私の生活、軌跡と共に。
駅に向かう途中で、大きな手荷物を引きずりながら、ごくたまに行く喫茶店に立ち寄った。
ここで共に時間を過ごした人々と寄って、静かな時間を過ごした。
今日は初めて一人だ。
まるで時代が戻ってしまったかのような装飾のその店は、私たちのお気に入りだった。
今日もこの店は時代を逆行し、その装飾にしっくりと馴染んだ時代錯誤の店員の雰囲気も、いつもどおりだった。
いつもは普通のコーヒーとなにか食べる物(だいたい決まっていて、私は甘ければホットケーキ、でなければハムサンド、だった)を注文するが、お腹が全くすいていなかったので、一番高いコーヒーを注文した。
時間をかけてゆっくりと飲み(とても熱かったので、冷まして飲まないと飲めなかったともいえる)、短編小説を1つ読んだ。
静かな時間が流れ、だんだんとこの静寂に漂っていたいという思いが増してきたが、そうもしていられない、と我に返った。
会計を済ませ、店を出るときにいつもの店員が私の後姿に声をかけた。
「いつもありがとうございます。またどうぞ。」
たまにしか行かなかった店なのに、彼女の記憶の中に私がいたのだ。
驚きと共に、穏やかな喜びが沸き起こってきた。
私もまた、この地に存在していたのだと。
名駅からバスに乗る。見送りと共に、きしめんを食べて別れる。
バスの中で、ここ何日かの慌しさから開放され、箍が外れたように心に静かな波が訪れる。
何故か、涙が出てきた。
去っていった住人、去ってきた八事、いろいろなものが漠然と渾然と溢れてくる。
小一時間ほどそうした流れに任せて、その後少し眠った。
私は、目が覚めたら、またいつもの日常に戻ることを知っていた。
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